人間関係

僕は友達が少ない』に登場するキャラクターはエゴイストがほとんどだと思います。夜空然り、星奈然り、マリア然り、小鳩然り。何故はがないを出したかといえば、最近見直したから。

ただ、少なくともはがないの世界ではエゴイストは孤立しています。集団から締め出されているわけです。だから彼らで隣人部を設立して友達を作ろうとしたのですが、小鷹がいなかったら多分散々な結果に終わっていたと思います。

 

結局、人は一人では生きていけない。

 

これには賛否両論あると思いますが、僕はその通りだと思います。実際、一人の力で人生を生き抜くことは不可能に近いです。医学(脳科学発達心理学?)では、愛情を受けずに育った子どもは異常に攻撃的になるか、没感情的になるという報告があるみたいです。哲学にも決定論/非決定論という理論がありますが、様々な学問において非決定論が優勢だと思われます。つまり、人間の人格形成には周囲の環境の与える影響が無視できないということです。

哲学においても、例えばミシェル・フーコーは主体(シュジェ)という概念を用いて、近代的主体を批判しています。似たようなことが仏教でも「縁」という言葉で説明されていることは、よく知られていると思います。またレヴィナスの他者論でも、人間は生きている以上他者を意識せずにいられないことが述べられています。

つまるところ、人は一人では生きていけない、ゆえに他人との関わりを持たねばならないということになります。

 

しかし、ならば我々はどのようにして他人と関わればいいのでしょうか。

 

そもそも僕は内向的であまり親しい関係の人間がいません。一度限りの関係であればそれなりに消化できるのですが、長い付き合いとなると別です。僕は複数回会った人間と会話する時、とても緊張します。具体的に言うと、僕は自分の発言が過去の自分の発言と矛盾していないか、ものすごく気にします。「昨日の私は今日の私ではない」とニーチェは述べましたが、「私」を他人が規定する以上現実はそう単純ではありません。

その時、はたと気づいたりします。

 

僕には自分というものがあるのだろうか?

 

もちろんこれは理論的に答えの出せる問題ではないです。結局自分自身が納得できるかどうかにかかっていると思います。

しかし、考えなければなりません。生きるために、他人と関わるために。自己というものを考えなければなりません。

そんな時、エゴイズムがひとつのしるべになると思うのです。

エゴイズムは悪いことです。J.S.ミルも『自由論』の中で述べているように、他人を害して許されるはずがありません。しかし、使いようによっては利益になる。毒にも薬にもなるんだと思います。

僕は生まれてこの方エゴの強い人間ではありませんでした。むしろ周囲に流され、他人が白と言えば白という具合に前ならえで生きてきました。アニメくらいしか自分のエゴが関わっていないと思っています。

自分なりのエゴイズムを探す、それが今の僕の課題だと思っています。

そうして、エゴと他者をすり合わせて妥当な落とし所を見つける、そのような作業が必要なのです。

そのためには、他者と自ら関わっていかなければなりません。「私はあなたと関わりたい、でもこちらからアプローチするのは面倒だし、あなたから近づいてほしいし、私のことをしっかり理解してほしい」このような考えは怠慢です。人間的怠慢とも言えるでしょう。このような考えを持っている人は決して少なくないと思います。自分を理解してもらう努力を大してしていないのに、他者が自分を理解してくれないことに不平を漏らすのは、十割あなたが悪い。そもそも、人は他者を完全な意味で理解することはできません。せいぜい、自分の経験を用いて他者がどう感じているか、何を考えているかを推論するので精一杯です。

「私がなんで怒ってるのか分かる?」という言葉は、完全なる思い込みによる増長です。怠慢も甚だしい。人は言語を用いてコミュニケーションを図ってこその生き物ですから。

完璧に理解し合うのは不可能だが、それでも相手のことを知り、自分のことを知ってもらう。そうして良好な関係を築き、生きていく。

それが、人間が生きていくうえで不可欠なことです。

 

こんなことを言っているとまるで僕は実践できているかのように聞こえますが、僕は現状学部に友達はいないし、サークルでも省かれ気味です。僕は一生懸命みんなのことを笑わせられるように、道化を演じてきました。大庭葉蔵ほどではないにせよ、僕は挑戦と失敗を繰り返し、失敗から何も学ばず似たようなことを繰り返すことで笑わせてきました。

しかし、結局道化は道化に過ぎず、たとえ道化として重宝されても一人の人間としては重宝されないのが現実。僕はおそらく他人から記号として見られているのだと感じることがあります。思い込みでしょうが、そのような時にこそ自己開示を行わなければなりません。何度挫けても、僕は頑張って人間になりたいです。