なろうのカテゴリ:現実世界(恋愛)作品をざっと読んでみた感想

22歳にもなってインターネットでラブコメ小説を漁っているのかと言われれば、これは汗顔の至りではありますけれども、かといって好きなものはしょうがないので毎日なろうにアクセスしてはラブコメ作品をチェックしています。書籍を買うには金がいるから。

 

さて、ネット小説が書籍化されるのは少し前からあることですが、その中でもラブコメ作品が書籍化するようになったのは比較的のことだと思っています。

 

 

なろうではないのですが、たとえばこの『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』。26歳のサラリーマン吉田が家出JKの沙優を拾い、なし崩しに同棲する小説ですが、これがネット発のラブコメ小説が勢いを得る端緒になったように思われます(データは無し)。実際、商業用ライトノベルと遜色のない出来になっています。

そして『佐伯さんと、ひとつ屋根の下』や『青春敗者ぼっち野郎、金髪尻軽ギャルのお気に入りになる』、『お隣の天使様にいつの間にか駄目にされていた件』、最近だと『友人キャラの俺がモテまくるわけないだろ?』などなど、以前に比べるとラブコメ小説にスポットが当たり始めたように感じられるわけです。

 

 

お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件 (GA文庫)

お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件 (GA文庫)

 

 

 

友人キャラの俺がモテまくるわけないだろ? 1 (オーバーラップ文庫)

友人キャラの俺がモテまくるわけないだろ? 1 (オーバーラップ文庫)

 

 

 

さて、そんななろう系ひいてはWeb系のラブコメですが、とりあえず日間ランキングに載っていた作品を50作ほど読んで感じたことを以下につらつらと書き連ねていきます。

 

1.そもそも小説である必要が無い

一番感じたことです。小説家になろうというサイトが小説投稿サイトである以上小説であることは絶対なので、「じゃあお前見なければいいじゃん」などと顰蹙を買うかもしれませんが、とにかくワクワクしてラブコメ小説をクリックして読んで小学校高学年でも書けるような作文を並べ立てられると、なんというか辟易するというか、期待して逆にごめんなさいと謝ってしまうような気持ちになります。

小説という媒体である以上、文章でなければならない理由があるはず。そう決めてかかったのが大きな間違い、映像ありきキャラありきで進められる話に思わずスクロールが捗る捗る。地の文どころか会話文さえ読まずに飛ばして大事そうなところを拾い読むだけで話を理解できる始末。

つまるところ、なろうに投稿されている小説というのは、別に文章でこそ表現したい何かを書き手が持っているわけではないということです。

悪く言えば、「あなた方は絵が描けないから漫画じゃなくて小説に避難してきてるんじゃないの」と言いたくなるレベルです。

 

2.物語ではなく日記

商業用の推理小説やホラー、SFなどは、話を進めるごとに伏線を張り巡らし、物語のテンションが最高に高まったところで全て回収して鮮やかなカーテンコールを呼び込む手腕が作者には問われています。この点では恋愛小説でも変わりないでしょう。なぜヒロインは主人公に惚れるのか、なぜ主人公はそのヒロインを選んだのか、なぜ主人公は数多のヒロインに好意を寄せられてなお気づかないのか。これらの「なぜ」をキャラクターの人格や秘密に結びつけて鮮やかに解きほぐし、そしてまたそれらの糸を別様に結びつけて恋を描くのがラブコメです。

にもかかわらず、日間ランキングに載るような小説は、伏線らしきものや物語の結末の暗示、それぞれの登場人物が抱くゴールについて全くと言っていいほど明示されず、何もかも宙ぶらりんにされたまま、確たる目標もなく話が進んでいたりします。

主人公とヒロインがイチャイチャしたりチンピラに絡まれた美少女を助けたりヒロインとヒロインの血で血を洗う主人公争奪戦が繰り広げられるのはいいとしても、それは日常の中の1ページとして描写されるに過ぎず、何か過去の精算でもなく、未来につながる大きな予感というわけでもありません。これを日記と言わず何と言えばいいのでしょうか。

 

3.なぜヒロインが最初から主人公に惚れているのか

全部が全部そうであるわけではないのですが、結構な数の作品においてこの傾向が見られます。物語開始時点ですでにヒロインが主人公に落ちている、主人公はそれに対し徹底的に鈍感or気づきながらも避け続ける、そういった構図が広げられたりしています。なぜなのか。大抵、過去にあった出来事に主人公と当のヒロインが絡みついており、その出来事における主人公の立ち回りを見た(あるいは当事者として経験した)ヒロインが惚れていた、そして時が経ってなお主人公に思いを寄せている、という筋書きで済ませられます。

そして、ここには書き手と同時に読み手であるオタクの心理も現れている。

つまり、今の自分に女を惚れさせられる甲斐性など皆無だから、過去の健常者だった頃の自分に惚れた美少女がいてほしいなぁ、そしてあわよくばそんな恋が今の今までずっと続いていてなんかいい感じにハッピーエンドだイエイになってほしいなぁ、という願望です。

現実問題、オタクに美少女が惚れることなど有り得ません。美少女は陽キャ女子に囲まれて、ウェーイ系男子とカラオケに言って、そしてウェーイ系男子の家で処女を捧げてセックス三昧に至るのです。ですがそんな残酷な現実にオタクは耐えきれません。気になるあの子の心も身体も他の男のもの、という現実を受け入れるだけの器をオタクは持ってないのです。逆に、「なぜ自分には美少女との関係がないのか」と思い始めます。そして悩みはやがて妄想を産み、妄想がフィクションの形をとって文章の息吹を吹き、作品として世に送られるのです。

こうしてオタクの歪んだ願望は、都合のいいヒロインという形になって具現化されるのです。それに共鳴する読者が評価するのです。

ここまで来ると、もはやなろう小説の評価の仕方自体、従来の鑑賞態度からはかけ離れていきます。作品の完成度は度外視され、ただヒロインが可愛いか、コメディは気持ちの良いものか、それは自分の嗜好に沿っているかで評価がほぼ決められます。文章など二の次です。

最終的に、いかに鏤骨の文章を書き完璧な作品構造を作り上げるかというよりも、いかに作者の秘められた気持ち悪い性癖が存分に暴露されているか、そしてそれは大勢の読者の求めに合致しているか、が最も肝要な要素になってくるのです。

極端な話、泉鏡花がなろうに投稿しようが、誰も評価してはくれないということです。

 

おわりに

散々罵倒のようなことを言ってきましたが、なろうにもなろうの楽しみ方があり、それさえ分かれば案外楽しむことができます。文章が稚拙な分肩肘張らずに隙間の時間でさっと読む事も出来ますし。

ヒロインは処女がいい

突然ですが、皆さんは処女厨でしょうか。僕はそうです。と言っても、現実において女の子は処女でなければならないというわけではありません。むしろ僕と同世代の、異性経験のない女の子がいたとしたら、僕はその人の人格を疑うだろうと思います。僕は童貞ですが。

 

僕は、ラブコメアニメや漫画などのヒロインは全員処女でなければならないと思います。

 

特にこの原則はラブコメにおいて徹底的に遵守していただきたい。彼氏もいたことがあってはいけません。できれば男友達もいないか、少ない方がいい。

なぜヒロインは処女でなければならないのか。

以下では、恋愛の成就を目的とする物語において、ヒロインが処女でなければならない理由を述べます。

 

1.プラトニックな恋愛を見たいから

これは比較的数多くの方に納得していただけるかと思います。少なくともアニメや漫画を好んで漁る人間はまともな人生を送っていません。ゆえに、思想や人格に歪みを来たします。その歪みの表出のひとつとして、「青春コンプレックス」というものがある。友達と部活終わりにアイスを買って帰ったり、一人で居残りしていたら偶然雑用を抱えた女の子と出会ってみたり、夏の暑い日波打ち際を歩く白ワンピースに麦わら帽子を被った女の子をニコニコ眺めたり、そういったことに対する憧憬が特徴です。胸を掻きむしるような愛惜に襲われます。それはひいては恋愛に及びます。どうなるかといえば、プラトニックな恋愛に対して憧れるのです。教科書の貸し借りをしてみたり、机を動かして一緒にお弁当を食べてみたり、夕暮れの沈む空の下、帰り道に勇気を出して汗まみれの手を繋いでみたり、そういった一つ一つの営為に対して憧れを抱くのです。それからやがて衝突をしたり、ヒロインの抱える悩みに真剣に頭を使ったりといった山場を乗り越え、やがては結ばれる。そういった恋愛に憧れるようになります。

しかし、逆に言えば、プラトニックな恋愛はそこで終わります。告白が成就し、晴れて交際関係に入ると、プラトニックな恋愛は終わります。これは断言できます。なぜなら高校生は性欲旺盛な時期だからです。恋人ができたら性交渉の一つや二つ、やってみたくなるものです。しかし、その先にはプラトニックな恋愛は存在しません。なぜなら、その時には既に二人の間には肉体的な関係ができあがっているからです。それはプラトニックではありません。

ゆえに、プラトニックなラブコメを望む以上、ヒロインには処女性を要求せざるを得ないのです。

 

2.二人の物語だけで完結していてほしいから

どういうことか。基本的に、というか道徳的に恋愛は二人の間に成立します。その間、三角関係ができたりしますが、最終的に交際は二人の間で行われることになります。その後に別の人物が入ってくれば、浮気や不倫になります。したがって、恋愛は二人の物語として認識されます。

 

それをもう少し突き詰めると、二人の物語に浸りたいから、その過去や未来を思わせる要素はできるだけ排除した方がよいのです。

 

最も分かりやすいのが、元カレや元カノといった存在です。たとえばヒロインには元カレがいるとします。すると、物語の聞き手であるわれわれは、嫌でもそれ以前の物語、つまり主人公とヒロイン以前の物語、元カレとヒロインの物語を想起せざるを得ません。夏祭り、藍染めの浴衣を来て頬を赤らめるヒロイン。それに主人公は思わずドキリとする。「あれ、コイツってこんなに可愛かったっけ……?」と、主人公は内面でヒロインとの関係の再考を迫られます。

 

しかし、その出来事も以前に元カレとの間にあったものではないか。ヒロインは元カレと夏祭りに参加したのではないか。われわれはそう思ってしまいます。主人公とヒロインの今、現在の物語が、急激に初々しい色彩を欠くようになります。

 

何が問題なのか。物語の〈究極目的〉である主人公とヒロインの劇的な恋愛成就ができなくなります。物語が展開している時、その物語が目指している帰結は主人公とヒロインが恋人同士になることです。この目的論的物語という構造において、元恋人は邪魔になります。なぜかといえば、恋愛成就という〈究極目的〉の一部が既に物語の過去において成し遂げられているからです。すると、現在における主人公とヒロインとの恋愛物語が、既に過去に行われた恋愛物語と重なり、一気に陳腐さと言いますか、どこにでもあるような日常性をまとってしまいます。ラブコメは非日常性という要素が大事なので、たとえモブにリア充がいても主要キャラに恋愛を思わせる要素を加えてはいけないのです。

時間には過去・現在・未来という流れがありますが、ラブコメは原則として現在と未来にかかわるべきであり、過去を想起させる要素はできる限り排除すべきです。未来も未来で、あまり想像させるべきものではないです。恋愛は現在において行われるものだからです。恋愛物語は、過去と未来から浮き出た特殊な現在なのです。ブコメというのは、もう二度と繰り返されない一瞬、かけがえのない物語でなければならないのです。

 

 

以上のことから、物語が物語として色彩とリアリティを帯びるためには、ヒロインは処女でなければならないという結論が導き出せます。

絵画

僕は美術史の本をたまに読みます。と言っても日本を含む東洋の美術史ではなくて、西洋美術史の方にかじりつくことが多いです。僕は日本の山水画や建築が好きですが、やはり総合的に見れば西洋の方に軍配が上がるだろうと思っています。

 

さて、一口に美術史と言っても有史以来2000余年の歳月が流れています。その間、主義の流行り廃りがもちろんありました。作風は無論、題材や方法論についても変遷を経てきました。

僕が特に好きなのは、ルネサンスからマニエリスム、そしてアール・ヌーヴォーなどの世紀末芸術、とりわけ象徴主義デカダンスです。

ルネサンスと世紀末芸術は一見すると、結構な雰囲気の乖離を感じます。例を挙げましょう。

ルネサンス期の有名な画家といえば真っ先にレオナルド・ダ・ヴィンチが出てきます。彼の『最後の晩餐』はシンメトリーや写実的な作風の評判が高く、ルネサンス絵画の代表格と言ってよいかと思われます。しかし僕としては、最も分かりやすい絵画はピエロ・デッラ・フランチェスカの祭壇画だと思っています。この絵中央に卵のようなものが吊り下がっており、左右に同じ人数の人間が置かれています。天井や壁の文様も図らったように対称的です。

一方で世紀末芸術は、旗手としてギュスターヴ・モローが挙げられると思います。彼はフランスのアール・ヌーヴォーにおいて先駆的な役割を果たし、『出現』や『テスピオスの娘たち』などの絵画には、神秘的と言いますかルナティックと言いますか、不安をもたらす雰囲気が漂っています。一方、ヤン・トーロップのある時期の作風のように、非写実的ですがモローと同様世紀末的な不安を感じさせる絵画もあります。

 

このように、ルネサンスにおいては調和や自然・人間礼賛、世紀末芸術においては不安感や超現実といった異なる特徴が見られます。時代背景も関連しているのでしょう。僕は素人なので詳しい説明はできませんが、ルネサンスは古代の神々の復活、ヒューマニズムの興隆、中世スコラ学からの脱出などを通じた、人間礼賛の絵画が、世紀末芸術はドレフュス事件や各戦争による政情不安などが反映されたのだろうと思います。また、世紀末芸術はオリエント趣味も特徴として挙げられます。スフィンクスサロメなどが題材としてしばしば使われました。

 

長々と曖昧なことを描いてきましたが、以下では僕の好きな画家や作品を挙げていこうと思います。

 

オディロン・ルドン

ルドンといえば白黒の絵が有名です。独創的な作風は、唯一無二のものでしょう。

 

ギュスターヴ・モロー

世紀末芸術といえばまず名前が挙がります。その人物造形や色づかいには、見る人を幻想へ誘う力があります。

 

グスタフ・クリムト

こちらも有名な画家です。『接吻』が特に有名でしょう。金色を主調とした絢爛豪華な作風には思わず目を見張ります。他にも『ユーディット』や『死と生』などの作品も面白いです。

 

オーブリー・ビアズリー

白黒の絵が特徴的な画家です。

 

ジョン・エヴァレット・ミレー

『オフェーリア』は誰しも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

 

ティントレット

しばしばバロック、しばしばマニエリスムに分類される画家ですが、まあ時期的にルネサンスに近いということで挙げておきます。特にバロック的な構図法の絵画が分かりやすくて面白いです。

 

ピーテル・ブリューゲル

農民画家として有名な人ですが、僕は『絞首台の上に立つカササギ』という作品にインパクトを受けました。

 

パルミジャニーノ

『長い首の聖母』はマニエリスムの特徴を端的に表しているので、しばしば美術書にも掲載されています。

 

 

人間関係

僕は友達が少ない』に登場するキャラクターはエゴイストがほとんどだと思います。夜空然り、星奈然り、マリア然り、小鳩然り。何故はがないを出したかといえば、最近見直したから。

ただ、少なくともはがないの世界ではエゴイストは孤立しています。集団から締め出されているわけです。だから彼らで隣人部を設立して友達を作ろうとしたのですが、小鷹がいなかったら多分散々な結果に終わっていたと思います。

 

結局、人は一人では生きていけない。

 

これには賛否両論あると思いますが、僕はその通りだと思います。実際、一人の力で人生を生き抜くことは不可能に近いです。医学(脳科学発達心理学?)では、愛情を受けずに育った子どもは異常に攻撃的になるか、没感情的になるという報告があるみたいです。哲学にも決定論/非決定論という理論がありますが、様々な学問において非決定論が優勢だと思われます。つまり、人間の人格形成には周囲の環境の与える影響が無視できないということです。

哲学においても、例えばミシェル・フーコーは主体(シュジェ)という概念を用いて、近代的主体を批判しています。似たようなことが仏教でも「縁」という言葉で説明されていることは、よく知られていると思います。またレヴィナスの他者論でも、人間は生きている以上他者を意識せずにいられないことが述べられています。

つまるところ、人は一人では生きていけない、ゆえに他人との関わりを持たねばならないということになります。

 

しかし、ならば我々はどのようにして他人と関わればいいのでしょうか。

 

そもそも僕は内向的であまり親しい関係の人間がいません。一度限りの関係であればそれなりに消化できるのですが、長い付き合いとなると別です。僕は複数回会った人間と会話する時、とても緊張します。具体的に言うと、僕は自分の発言が過去の自分の発言と矛盾していないか、ものすごく気にします。「昨日の私は今日の私ではない」とニーチェは述べましたが、「私」を他人が規定する以上現実はそう単純ではありません。

その時、はたと気づいたりします。

 

僕には自分というものがあるのだろうか?

 

もちろんこれは理論的に答えの出せる問題ではないです。結局自分自身が納得できるかどうかにかかっていると思います。

しかし、考えなければなりません。生きるために、他人と関わるために。自己というものを考えなければなりません。

そんな時、エゴイズムがひとつのしるべになると思うのです。

エゴイズムは悪いことです。J.S.ミルも『自由論』の中で述べているように、他人を害して許されるはずがありません。しかし、使いようによっては利益になる。毒にも薬にもなるんだと思います。

僕は生まれてこの方エゴの強い人間ではありませんでした。むしろ周囲に流され、他人が白と言えば白という具合に前ならえで生きてきました。アニメくらいしか自分のエゴが関わっていないと思っています。

自分なりのエゴイズムを探す、それが今の僕の課題だと思っています。

そうして、エゴと他者をすり合わせて妥当な落とし所を見つける、そのような作業が必要なのです。

そのためには、他者と自ら関わっていかなければなりません。「私はあなたと関わりたい、でもこちらからアプローチするのは面倒だし、あなたから近づいてほしいし、私のことをしっかり理解してほしい」このような考えは怠慢です。人間的怠慢とも言えるでしょう。このような考えを持っている人は決して少なくないと思います。自分を理解してもらう努力を大してしていないのに、他者が自分を理解してくれないことに不平を漏らすのは、十割あなたが悪い。そもそも、人は他者を完全な意味で理解することはできません。せいぜい、自分の経験を用いて他者がどう感じているか、何を考えているかを推論するので精一杯です。

「私がなんで怒ってるのか分かる?」という言葉は、完全なる思い込みによる増長です。怠慢も甚だしい。人は言語を用いてコミュニケーションを図ってこその生き物ですから。

完璧に理解し合うのは不可能だが、それでも相手のことを知り、自分のことを知ってもらう。そうして良好な関係を築き、生きていく。

それが、人間が生きていくうえで不可欠なことです。

 

こんなことを言っているとまるで僕は実践できているかのように聞こえますが、僕は現状学部に友達はいないし、サークルでも省かれ気味です。僕は一生懸命みんなのことを笑わせられるように、道化を演じてきました。大庭葉蔵ほどではないにせよ、僕は挑戦と失敗を繰り返し、失敗から何も学ばず似たようなことを繰り返すことで笑わせてきました。

しかし、結局道化は道化に過ぎず、たとえ道化として重宝されても一人の人間としては重宝されないのが現実。僕はおそらく他人から記号として見られているのだと感じることがあります。思い込みでしょうが、そのような時にこそ自己開示を行わなければなりません。何度挫けても、僕は頑張って人間になりたいです。

 

 

初投稿

初投稿です。

 

実は僕はアニメが好きで、大学四年生の現在、他にすることも無いのでdアニメストアで目についたアニメを片っ端から観ています。

元々僕はSFやファンタジーなどの、ストーリーが骨太なアニメが好きだったのですが、最近のきらら推しや日常系の流行りの波を受け、そっち系のアニメにも手を出し始めました。

 

日常系にハマった遠因は『こみっくがーるず』だったと思います。

僕はきらら系のような日常系には「ギャグもつまらん、テンポも悪いアニメ」というレッテルを貼って倦厭していたのですが、このアニメはそんな僕の偏見を訂正するきっかけを与えてくれました。その後冬に放送した『私に天使が舞い降りた!』を観て、日常系も随時サルベージしようと思っています。もし面白いアニメがあったら教えてください。

 

あと、最近観たアニメではバチカン奇跡調査官が面白かったです。このアニメは二人の主人公がホモです。片方には弟がいるのですが、そいつもホモです。もう片方には死別した友人がいるのですが、そいつもホモです。さらには敵キャラに神父さんが登場するのですが、そいつもホモです。どのような関係かと言うと、まず主人公の二人がホモカップルです。その片方の弟ともう片方の死別した友人がホモカップルです(お互い自分の兄、友人のいい所を言い合いマウントを取りまくる)。そして神父さんは総受けです。

面白いので是非観てみてください。